砧公園
ディズニーランドが50haほどらしいので、40haの砧公園もかなり大きい都立公園で日比谷公園の2.5倍ほどの広さになります。
歴史を遡ると戦前の1940年、皇紀2600年を記念しての都市計画で東京府内6か所に大緑地を整備することが決まります。当時は関東大震災後の都市化と人口増加が進んでいる頃でしたので、都市計画としての緑とレクリエーションの都市空間としての緑地整備だったようです。戦争が始まると、軍事訓練所や食料確保のための農地に転用され、空襲が激しくなると現在の大蔵運動公園の西側には防空壕も掘られました。おそらく国分寺崖線の崖の傾斜を利用して横穴を掘ったのでしょうか。実際に公園内に焼夷弾も落ちたそうです。
戦後すぐは食糧難ということもあって農地転用は続けられました。食料難が落ち着いてくると、復興用途で街路樹や公園樹木用の苗木の育成場所として利用され「砧苗圃」と呼ばれていたそうです。その後、復興が進んでくると野球場とキャンプ場が開設され、遠くへ旅行までは経済的に厳しい人々のレジャー地として利用されるようになり、移動動物園として象のはな子もやってきていたそうです。いまでも移動動物園ではないですが区や獣医師会が主導して11月ぐらいに「世田谷区動物フェステバル」という動物と触れ合う催しが開催されています。
1955年には都立のゴルフ場が造られました。都立なので料金も安く好評だったようですが、1965年頃には高度経済成長の時代となって都市化と環境悪化が一気に進んだことから緑地整備が重要になってきたことと、東名高速の建設で9つのホールのうち3つが減ってしまうことから、ゴルフ場を緑にあふれたファミリーパークとして再整備したようです。公園内の大芝生の場所は「ファミリーパーク」の名が残っていて、なだらかな起伏や一面の芝生と点在する木々などゴルフ場の名残がありますね。
その後、整備は続けられて1986年には世田谷美術館が開館します。独特な視点で収集したコレクションの展示や企画展など行っています。カフェとフレンチレストランも併設されています。美術館の設計は内井昭蔵。この設計で毎日芸術賞・日本芸術院賞を受賞しています。
いまでは公園内の樹木も大きく育ち、四季折々の姿を見せてくれます。特に、桜の季節には多くの花見客で賑わいます。日常でも犬の散歩やジョギング、芝生ではフリスビーやボール遊び、寝転んで日向ぼっこや読書などされている方が多いです。子供用の遊具も各種豊富にそろっていますし、バードサンクチュアリエリアでは野鳥観察もできます。夏の時期には、窓口に届けて規則に従えば舗装地などの決まったエリアで手持ち花火とかも可能のようです。
1940年に計画が始まり80余年の年を重ね、戦争など多くの変節を共にして、いまも憩いと遊びの場として色々な人々に利用されている空間です。
1940年に計画が始まり80余年の年を重ね、戦争など多くの変節を共にして、いまも憩いと遊びの場として色々な人々に利用されている空間です。